青赤亭ギョタ郎@下高井戸のブログ

FC東京をこよなく愛し、心から応援するブログ

FC東京に足りないもの

大規模なコンサートが行われた味スタのピッチの状態が気になっておりやした。

トーチューによれば、昨日の味スタで練習した選手からは、下が緩いのが気になるとか、
剥がれてて足をとられる所もあるので注意しなければといった声が聞こえる中で、
長友だけは、芝については全然大丈夫と気にしてなかったそうでやんす。

北京のピッチがもっとひどかったってのもあるんでしょうが、
もともと長友のような野生児には、味スタ程度の芝なら御の字なのかもしれやせん。

もちろん、芝が原因で贔屓の選手に予期せぬ大怪我をされては堪りませんし、
栄えある国内最高峰リーグのプロに、最高のプレイを見せてもらうためには、
最高の状態に整備されたピッチが必要だということを否定する気はありやせん。

ただ、みんなガキんときは膝小僧すりむくようなとこで蹴り合ってたんでしょうから、
長友のように、どんな劣悪なピッチでも関係ねえと言い切る精神的なタフさを、
選手たち全員に、忘れずに持ち続けていて欲しいもんでやんす。

見てくれや細かいことを気にしない野性的な感覚を切り捨ててしまったまま、
洗練されたシュートのような、きれいなプレイばかりを追い求めているばかりだと、
最後んとこで競り勝つための無茶を承知の気迫のプレイを忘れちまいそうでやんす。

最近、東京のゴールシーンから、カッコなんかどうでもいいから、
何がなんでも押し込むといった昔の泥臭いプレイが少なくなってしまったのは、
そんなところに原因があるように思えてしかたがありやせん。

世の中全般を眺めても、余りにも清潔さを求めて無菌とか抗菌とかを気にするあまり、
もともとある免疫力が低下し、ひ弱になった現代人の姿とダブッて見えてしまいやす。

やつがれの大好きな荘子に、次のような話がありやす。

「南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、
 中央の帝を渾沌(こんとん)と為す。
 儵と忽と、時に相与に渾沌の地に遇う。
 渾沌、これを待つこと甚だ善し。
 儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを謀りて、
 曰わく『人皆七竅有りて、以て視聴食息す。
 此れ独り有ること無し。嘗試みに、之を鑿たん。』と。
 日に一竅を鑿つに、七日にして渾沌死せり。」

簡単に訳しやすと、
南の王と北の王が、真ん中の渾沌という王の接待で会見してから仲良くなれたので、
渾沌王の恩に報いるためのお礼として、目、鼻、耳、口の七つの穴が無い渾沌の顔に、
七つの穴をあけてあげたところ、渾沌は死んでしまった、ということでやんす。

やつがれはこの話を、なにごとも混沌としている状態(カオス)こそが、
活気に溢れて一番生命力が高い状態なのであって、そこに人知の手を入れて、
下手に整備しようとすると途端に生命力が失われてしまう、という風に解しておりやす。

昭和30年代、40年代を知っているやつがれには、この話はすんなり頭に入ってきやす。
今思えば、あの頃の東京の街の上は、何かが渦巻いてたような気がいたしやす。

カポレが口にした今のFC東京に足りないのは、この渾沌の生命力じゃないんでしょうか。

年々カッコよくて洗練された選手が増えていく中で、
長友のような生命力溢れるゴリラ男こそ、クラブの宝として大切にして欲しいところ。

極論ですが、長友が11人いりゃ、芝問題は解決しちまうわけでやんすから…。