こんなスポニチの記事を見ました。
へぇ~、伊藤純也と土居聖真は、同じ学校だったのか…
念のため調べたら、全く出身も学校も違いました。
なんでそう思ったかと言うと、「同級生」と書いてあったからです。
当方は小学校で、「同級生」は、同じ学校の同じ組の級友のことと習いました。
同じ学年の人達は区別して、「同学年」もしくは「同期」と呼んでいました。
ちなみに、同じ学校を卒業している人達は、「同窓生」と言っていました。
ところが、ネットで意味を調べると、角川類語新辞典(1981年)では、
「同級」は、「同じ学級(年)」となっているそうです。
一方、平凡社の「大辞典」(1936年)では、「同級生」のことを、
「学校にて、同じ学級に属する生徒。クラスメート」と定義しています。
当方の小学生時代は、クラスのことを普通に、「学級」と読んでましたし、
学級委員という言葉もあり、学級は自分の所属する組のことでした。
担任の先生は、ちゃんと学級の字義のまま、平凡社の定義に従って、
同じ組の人達のことだけを同級生と区別して教えてくれていたのです。
そうでないと、1組の自分と、3組のXX君を同級生と呼んだのでは、
同級の人達だけで集まれという先生の指示は、意味を成さなくなります。
ということは、当方が小学校を出た後、恐らく1981年頃くらいから、
「同じ学級(年)」のカッコが強まり、本来の字義が崩れたと思われます。
余談ながら、大学で同期だった旭川出身の友人からは、北海道では、
同学年もしくは同期のことを、「ドンパ」と言うと習いました。
俺とお前はドンパだよなと言えば、冒頭の勘違いもなくなります。
日本語は変わりいく言語なので、時代の流れに逆らっても、
止めることはできないことは、悟ってはいます。
でも、本来の字義が捨てられると、本質を見失ってしまいそうで、
とても残念な気持ちになります。
その時代の意味は意味として、本来はどのように使われていたかを、
残していかないと、文化は薄っぺらなものになってしまいます。
なので、若い世代の人たちは、昔のことと馬鹿にしないで、
好奇心を持って、文化を育てていってほしいと思う限りです。
ちなみに、8時10分前って、当方は7時50分だと思いますが、
今の若い人たちは、8時7~8分を指すのだそうです。
これは、時刻をアナログ時計と、デジタル時計のどちらのビジュアルで、
思い浮かべるかで変わってきているようです。
また、TVのテロップのような書き文字ではちゃんと入りますが、
食べられるを食べれるという「ら」抜き言葉を多く聞きます。
当方の時代の小学校の担任の先生に、食べれるなんて言おうものなら、
まだ幼稚園生みたいで恥ずかしいですね、と指導してくれたものです。
当時の先生は、日本語の本質である助詞の使い方にも厳しかったです。
最近、よく耳にするのは、あのお店でパンが売ってるという言い方。
パンが売られている or パンを売ってる が、正しい言い方です。
なんか、1憶総幼稚園児化が進んでいるようで、末恐ろしくなります。
当方にも、これを受け入れる達観の域に達する日が訪れるのでしょうか。