今日はサッカーキングが、復活に燃える平山にスポットライトを当て、その意気込みを、次のコメントで伝えておりやす。
自分の力が出せるように、100%をサッカーに注ぎたい。
平山から100%の決意表明が出るとは、オランダから帰朝した頃から思うと、何と大人になったことでやんしょ。
いやあ、実に頼もしい。
大器晩成という言葉は、彼のためにあるのだと信じて疑わずにきやしたが、今年は、それを実感できる年ななって欲しいと切に願いやす。
期待しておりやすよ。
それはさておき、大器晩成という言葉は、老子の中に出てくるんでやんすが、近年、実は全く違う言葉だったとされておりやす。
朝日新聞のコラムでは、晩成の「晩」は誤って書き写されたもので、正しくは、「免」だったと紹介されたことがありやす。
(ただし、「曼」だったとする説もあるそうでやんすが。)
大器免成だと、本当の大器はいつまで経っても完成しないという意味になりやす。
それならば、果てしなく拡がる宇宙を想起させ、確かに、その方が老子の言葉としては、しっくりくるように思いやす。
その意味では、平山にはむしろ、大器免成の方が合っているのかもしれやせん。
平山には、終わりなくいつまでも成長を続ける怪物でいて欲しいもんでやんす。