今朝の天声人語。
最近の若い人は、自分でお茶をいれたことがないようでやんす。
幼稚園の講演で、お茶をいれるという言葉自体を知らないらしく、
講師に、お茶は家で作れるのかと質問した若い母親がいたそうでやんす。
さらに、料理教室では、生徒が急須を指して、何の道具かと質問したり、
高校では、急須を直接火に掛けようとした生徒がいたそうな。
お茶はペットボトルに入っているものを買うのが常識となると、
奥ゆかしい「粗茶ですが」というもてなしの心も消えつつあるわけでやんす。
便利さが行き届く一方で、大切な日本の心が失われていくことを、
危惧するとともに、やんわりと警鐘を鳴らしたコラムでやんした。
我々世代が若かった頃も、当時の大人達からは、
最近の若者は、米の研ぎ方も知らないと言われたもんでやんす。
どこぞの短大で、生徒が米を泡立て器でカシャカシャ掻き回したり、
米を食器用洗剤で洗おうとした話が、世間で有名になりやした。
やつがれは、米の研ぎ方も、お茶のいれ方も、味噌汁の作り方も、
興味があって、家で見聞きしやしたし、小学校でも習いやした。
なので、自動炊飯器ではなく、文化鍋という調理具でご飯を炊く方法も、
秋刀魚を焼くための七輪の使い方も、知っているわけでやんす。
受け手に好奇心があれば、当たり前に受け継がれるもんでやんすが、
そうでなければ、心して伝え手が伝えないと文化は萎むばかり。
せめて、自分の子供達には、先人達の智恵の結晶である文化を、
少々うるさがられても、聞く耳持たして、伝えていこうと思いやす。